井上ミツオ眞理子
幼少の頃
杉並区に生まれる。
三歳よりピアノを始める。
東京芸大出の個人のピアノ教室に妹と通う。
習い始めの頃はご飯を食べるのもわすれてピアノに向かうほど熱心だったそうです。
立教女学院小学部受験落第して、公立の区立小学校入学。
過保護に育ちどちらかと言うと、運動は好きではあるが苦手です。
小学生
練習にはいつも祖母が横に付きピアノの上にその当時あった銀行の貯金箱を10個並べて毎日各曲10回ずつ練習させられていました。
カレンダーに練習した日は丸を付けて100個たまったら 着せ替え人形タミーちゃんの服をご褒美に買ってもらえたり、親は練習の習慣付けに、工夫していた様子でした。
小学四年生になったころから一人でも練習できるようになりチェルニー30番に入った時に「譜読み易しいなあ」と感じた事を今でも覚えています。
セオリーは殆ど教わることなく、hanonのスケールは苦労しました。
高学年は反抗期マックスで、音中(くにたち附属)受験は、初めての大学のピアノ教授のレッスンはそれまでとはレベルが違い恐ろしかったです。
後にこの先生に師事。
家庭不和
中学生 国立音大附属中学校ピアノ科入学。
クラブ活動などは無いに等しく、週末はピアノのホームレッスンに通う生活でした。
入学時からそれまでのチェルニー40番も振り出し1番から、バッハインベンションもやり直しとなりました。
学校生活はまあまあ楽しかったのですが、二学年から両親が不仲に。
家庭内は戦争状態になり学業もピアノ練習にも身が入らない最悪の暗黒時代の3年間でした。
思春期
担任の先生からの呼び出しや個人面談、せっかく付いた高名なレッスンの先生からも「なぜ練習してこないか?」と怒らせてその日のレッスンは終了という事が度々ありました。
当時は、先生からの「私の学生時代は一日7時間練習していたのに、あなたは毎日何時間練習しているのか?」という問いかけに 「一週間で7時間」とふてくされて答えて 激怒させたこともありました。
ですが、まわりの先生方へ家庭内の重苦しい空気や自分の感情は話せませんでした。
家族内で和合が取れないのに 子供には厳しく好成績を望む周りの大人たちへの反発が自分の中に広がっていきました。
思春期の子供にとって、温かな家庭と親子間の信頼関係が築かれていれば、外に愛情や安らぎを求めて 青少年を毒牙に掛ける、人の姿をした悪魔になびくことも無いでしょう。
中学三年生の秋に父は弟を連れて出ていきました。
兄弟姉妹四人いますが、悲しい日でした。
まさに 心の中は嵐が吹き荒れ、家出を考えることもありました。
温かな家庭こそ、健全な心の成長に不可欠であり、ピアノを通して、教師として構えるのではなく、心が通える存在でいたいと思っています。
高校時代
高校は最低の成績でしたが、そのままピアノ科に進級でき、高校からの入学組も混ざって自分自身でも心機一転を努力して楽しく過ごしました。
ピアノに関してはショパンエチュードに入る優秀組の友人もいる中にまだツェルニー40番をたらたら弾いていたので全く進歩が無かったと思います。
高校では学校でついていた新しいピアノの講師と今迄の大学の教授に学校には内緒で付き其々課題の曲が異なり、教本も大学の教授は外国版使用で1週目暗譜など かなり練習がきつかったです。
他に指に重りを掛ける訓練もやりました。
高校二年生から趣味で声楽をしていた叔父の紹介で亡木下武久先生の木下発生研究所に通い、こちらは楽しかったです。
ここは木下武久氏の編み出した体操が業界では有名らしく、クラスメートの歌科の友達からよく聞かれたりしました。
ピアノの練習をサボっても指が良く動いたのは、この指の訓練のお陰だと思います。
高校三年生時に学校指定の講師以外についていたことが高校講師にばれて怒りを買ってしまいました。
大学時代
まさかのピアノ科は落ちで、教育科へ入学。
歌も有り今となってはいろいろな引き出しを持ててよかったと思います。
教育一類の授業は先生方熱心で 案外といごこちがよかったです。
辛かったこれらの経験のどれも今思うと 何一つ無駄ではなっかたと思えるこの頃です。
社会人 独身
宮地楽器ピアノ個人レッスンと三浦学園 日本音楽高校非常勤講師奉職。
結婚
学生時代の友人たちがぽつぽつと結婚する中に、恋愛に厳しかった家庭の中で26歳で見合い結婚をしました。
わが子を見ていると、自由な恋愛の中に学歴や環境のようなものにこだわらずに それぞれに良きパートナーを見付けて幸せを築いているので、若い世代にずいぶんと価値観も変えさせてもらいました。
見合い(26歳)
夫は都市銀行員でほぼ二年ごとの転勤族となりました。
箱入り不良若奥様は、初めての社宅生活を経験します。
関西の社宅の中では教えるこちら側も転勤族なら、習う側もいつお別れになるかわからない転勤族です。
お母様方の頻繫に催されるお茶飲み会であっという間に噂が広がり、社宅内のヤマハピアノ生、面白かったのはうちの娘目当てに入会のやんちゃ坊主まで、あっという間に20人の生徒を持ちました。
千葉県浦安の社宅時代では、ディズニーリゾート シェラトンホテル ラウンジでのピアノ演奏などわずかな時間ですが 子育てから離れて楽しい仕事も経験しました。
ここでクラシック音楽一辺倒であった自分自身の音楽の幅を広げる事につながったと思います。
当時若くバリバリのマリコ先生は 形拘る固い考えの親たちを嫌っていたのに、自らもわが子に早期教育など 毒親まっしぐらの道を歩んでしまいました。
しかも、自分ほど熱心な親はいないと得意げに毒親をしていたので救いがないです。
ほぼ毎日プリント学習ずけの小学受験に始まり、勿論 末は才媛か?
中学受験、でも、そろそろ親の脅しが利かなくなる、このあたりから自分にも身に覚えのある 娘の反抗期到来に悩みやっと気がつくのです。
自分がされて嫌だったことを今度は我が子にしている愚かさ。
まさに輪廻しています。
自分の子育てもまた形に拘り、心が無かったなあ。
トップバッターの長女へ、今懺悔です。
私の思い
そのような経験から、井上Mary教室は発達段階に則した楽しいレッスンからコンクールなどで苦しめる事が無いように、他と比べない指導をしています。
ですが 一人一人お互いに非常に仲が良いです。
何よりも心に寄り添う居心地の良いお稽古事を目指しています。
音楽は国を越え、肌の色も関係なく世界共通のこころが瞬時に通い合うことができる素晴らしいものです。
生きていく中で、悲しいこと、落ち込むことが遭ったとき時、自ら奏でるピアノの音に癒され、又、勇気ももらえるのです。
それは、自身だけではなくご家族や周りの人たちにも波及していくことでしょう。
親御様にぜひお薦めしたいことは、物ではなく大切なおこさまの人生に「ピアノの友達」を是非身に付けさせてあげて頂きたいと思います。